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ミャンマー人サッカー選手が帰国を拒否して難民認定の申請

サッカーワールドカップ予選出場のためミャンマー代表として日本に来日した選手が、5月28日の日本戦での国歌斉唱の際、クーデターを強行した国軍への抵抗を示す「3本指」を掲げました。6月16日に関西空港で「帰国すれば命の危険がある」として保護を求め、6月22日に大阪出入国在留管理局で難民認定の申請を行う。7月2日「帰国すると迫害を受ける可能性が高い」として、日本で6か月間の「特定活動」という在留資格を得る。そしてこの日、これを5年間の「定住者」に変更する許可を申請し、認められる。

「国後島から泳いできた」ロシア人男性が難民認定の申請

8月19日、北海道東部の漂津町内でロシア人が発見された。この男性は「亡命するため国後島から泳いできた」と話している。ロシア人男性は当初「一時庇護(ひご)」を求めたが、札幌出入国在留管理局が認めなかったため、在札幌ロシア総領事館に引き渡される予定だったが8月27日、難民認定を申請をした。

難民とは?

1951年の「難民の地位に関する条約」では、「人種、宗教、国籍、政治的意見やまあたは特定の社会集団に属するなどの理由で、自国にいると迫害を受けるかあるいは迫害を受けるおそれがあるために他国に逃れた」人々と定されています。今日では、「難民」とは、政治的な迫害の他、武力紛争や人権侵害などを逃れるために、国境を越えて他国に庇護を求めた人々をさすようになる。

「難民」ときくと日本人の我々にとっては遠い国の問題と感じるかもしれませんが、とても身近にある問題です。東京オリンピック・パラリンピックでは「難民選手団」が競技に参加していました。「難民選手団」は紛争や迫害により故郷を追われた難民アスリートによって構成され、2016年リオ五輪で初めて結成されました。シリア・南スーダン・イラン・アフガニスタンなど11ヶ国出身の選手の代表から成り立っています。

日本は1981年に「難民条約」に加入し、1970年代後半からベトナム・ラオス・カンボジアからのインドシナ難民を約11,000人受け入れました。(インドシナ難民の受け入れ事業は2005年度をもって終了)1982年の難民認定制度の導入から2019年までの申請は81,543人。そのうち794人の条約難民を受け入れました。難民と認定しなかったものの、人道上の配慮を理由に在留を認めたのは2,665人となっています。

そして難民認定の申請を行うと審査中の「難民申請者」も含めて【ノン・ルフールマン原則】に従い送還が禁止されています。
【ノン・ルフールマン原則とは】
生命や自由が脅かされない人々(特に難民)が入国を拒まれるあるいは、それらの場所に追放したり送還されることを禁止する国際法上の原則。追放及び送還の禁止。1951年以降、難民条約を140か国が署名している。

日本は難民の認定が他国に比べて少ないことは皆さんもご存じだと思います。難民申請の手続きには、多くの時間がかかります。自らが難民であることの証明をしなければなりません。そして提出された書類から難民であることを認定する入管局の審査官は、とても大変だと思います。本当の難民の中から、難民ではない外国人を区別しなければなりません。日本に在留したいという理由で、難民申請をする外国人も少なくないからです。

今回、ミャンマー人のサッカー選手の難民認定の速さは異例の事です。この男性をサポートする支援がしっかりしていたのでしょう。はたして亡命を求めたロシア人の男性はどうなるか分かりませんが「私は難民」である証明がきちんと出来れば、日本での難民認定も可能になるでしょう。

本日も最後まで読んでいただき、
ありがとうございます。

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